LOGIN夕方、社内が少し落ち着いた時間帯。
嵩はコピー機の前で資料をまとめていた。背後から、落ち着いた声がかかる。「平田さん」振り返ると、美鈴が立っていた。「少し、時間いい?」「はい」短い返事。理由を聞かなくても、何となく察しはつく。◆応接室ドアが閉まる音が、静かに響いた。「噂の件は、もう処理した」「ありがとうございます」「感謝されるようなことじゃない」美鈴はテーブルの向かいに座らず、窓際に立ったまま言う。水曜日の夜。朱里の部屋。コンビニ袋をテーブルに置いたまま、二人は床に座っていた。缶コーヒーが一本、開けられないまま転がっている。「……で?」美鈴が先に口を開いた。声はいつも通り、淡々としている。「平田嵩。今、どういう立ち位置?」いきなり核心。朱里は一瞬、言葉に詰まった。「……どういう、って」 「“好きです”って言い合った。でも付き合ってない。職場では距離を取る。帰り道は一緒に歩く。──合ってる?」全部、当てられている。「……盗聴されてた?」 「違う。顔に全部書いてある」朱里は小さく息を吐いた。「……怖いんだと思う」 「何が?」 「変わること。今のまま壊れない距離が、なくなるのが」美鈴は朱里を見たまま、視線を逸らさない。「それ、逃げてる?」 「……逃げてない、つもり」 「“つもり”は逃げの親戚」ぐさっと来る。「美鈴ってさ……もうちょっと優しくできないの?」 「できるよ。でも、今日はしない」朱里は苦笑した。「……だよね」 「朱里。あんたね、“好き”って言われると、急に自分を後回しにする癖ある」胸の奥を、正確に撃ち抜かれる。「相手が大事だから、我慢する。壊したくないから、言わない。そのくせ、限界きたら一人で抱えて黙る」「……」 「それ、優しさじゃない。自己犠牲中毒
夕方、社内が少し落ち着いた時間帯。嵩はコピー機の前で資料をまとめていた。背後から、落ち着いた声がかかる。「平田さん」振り返ると、美鈴が立っていた。「少し、時間いい?」 「はい」短い返事。理由を聞かなくても、何となく察しはつく。◆応接室ドアが閉まる音が、静かに響いた。「噂の件は、もう処理した」 「ありがとうございます」「感謝されるようなことじゃない」美鈴はテーブルの向かいに座らず、窓際に立ったまま言う。「中谷は、仕事に真面目で、責任感が強い」 「……知ってます」「だから、壊れやすい」その一言が、空気を変えた。嵩は、言葉を選ぶ。「……俺は、壊すつもりはありません」 「分かってる」即答だった。「あなたが軽い人なら、最初から止めてる」沈黙。「でもね」美鈴は、初めて嵩を見る。「“優しい人”ほど、 無自覚に人を追い詰める」嵩の喉が、わずかに鳴った。「守ってるつもりで、 選択肢を奪うこともある」
月曜日の朝。 オフィスに入った瞬間、朱里は気づいてしまった。 ──視線が、増えている。 直接見てくる人はいない。 でも、通りすがりに一瞬止まる会話。 小さく交わされる目配せ。 (金曜日の、あれだ……) 席に着いた直後、瑠奈がひょこっと顔を出す。 「おはようございます!」 「……おはよう」 「昨日、夢に出てきましたよ。 中谷さんと平田さん」 軽く言うな、と思う。 「望月さん」 「はい?」 「余計なこと、言ってないよね?」 「えー、事実しか言ってません!」 その言い方が一番怖い。 そこへ、美鈴が現れた。 「望月」 「はい」 「朝礼前、応接室」 有無を言わせない声。 瑠奈は「え、私だけ?」と首を傾げながら連れて行かれる。 朱里は、胸の奥がざわついたままパソコンを立ち上げる。 少し遅れて、嵩が出社してきた。 目が合う。 何も言わない。 でも、昨日までより少しだけ──近い。 ◆朝礼後 社内チャットが静かにざわついている。 《金曜、見た人いるらしい》
その日は、何でもない金曜日だった。 午後の会議が早めに終わり、 部署全体が少しだけ気の緩んだ空気に包まれていた。 「今日、飲み行く人ー?」 誰かの声に、数人が反応する。 朱里は資料を片付けながら、静かに帰る準備をしていた。 「中谷さん」 唐突に呼ばれて、顔を上げる。 そこにいたのは、瑠奈だった。 椅子をくるっと回し、肘をついてこちらを見ている。 「はい?」 「昨日、誰と帰ったんですか?」 一瞬で、空気が止まった。 「……え?」 「だって、いつもより靴きれいだし。 あと、今日はネイルも直してる」 根拠が、どうでもいいのに鋭い。 「たまたま、です」 「ふーん」 納得していない声。 瑠奈は、ちらりと朱里の背後を見る。 「平田さん?」 名前を呼ばれ、嵩が振り返る。 「昨日、中谷さんと一緒でしたよね?」 ──完全にアウト。 「……瑠奈」 美鈴が、低く制止する。
昼休みの給湯室は、妙に静かだった。電子レンジの回る音と、ポットが沸く小さな唸り。それ以外は、何もない。朱里はマグカップを握ったまま、ぼんやり立っていた。昨夜のことが、まだ頭から離れない。(手、繋いだ……)思い出すたび、頬が熱くなる。「……中谷さん」背後から、低く落ち着いた声。振り返ると、田中美鈴が立っていた。相変わらず無表情に近い顔で、コーヒーを注いでいる。「最近、分かりやすいですね」心臓が跳ねた。「え……な、何がですか?」 「嵩さんの話をするとき、 一拍遅れてから否定するところです」朱里は言葉を失った。「……そんな、こと」 「あります」即答だった。美鈴はマグカップを手に、朱里の隣に並ぶ。「『別に好きじゃないです』 『興味ないです』 『大嫌いです』」淡々と、再現する。「そのあと、必ず目線が下がる。 声が半音、下がる。 手が、止まる」朱里は、何も言えなかった。「……で、昨夜は何がありました?」 「な、なんで分かるんですか……」 「今日は、指輪し
信号が青に変わった。 人の流れに押されるように、一歩踏み出す。 その拍子に、朱里の指先が嵩の指に──また、かすった。 昨日より、はっきり。 一瞬じゃなく、確かに“触れた”感触。 (……今の、気のせいじゃない) 朱里が反射的に手を引こうとすると、嵩が小さく声を出した。 「待って」 足は止めず、声だけが落ちる。 強くもなく、命令でもない。 ただ、引き止めるための一言。 朱里の手は、宙で止まった。 「……触れてもいい?」 「……はい」 答えは、考えるより先に出ていた。 嵩の手が、ゆっくり近づく。 指先が触れ、手の甲が重なり── そして、迷うように、でも確かに指が絡んだ。 握られた。 ぎゅっとじゃない。 逃げ道を残した、優しい力。 胸の奥が、きゅっと音を立てた気がした。